![]() |
![]() |
![]() |
平成17年6月26日 長崎街道(新大工→古賀) 同行者 : カワイイかみさん
新大工(09:00) → 本河内(09:55) → 日見峠(10:35) → 日見宿[宿町](11:30) → 矢上宿(13:40) → 古賀(15:18)
山の方は虫やら蛇やらび遭遇するケースが増える時期となったので九重などの九州では高い山を除きしばらく山登りは中断することにしました。
この間、多少なりと山登りに慣れてきた体を維持するために街道歩きを始めることにしました。ということで、なにはさておき、まずは長崎街道からです。
朝8時過ぎに家を出、松山の駐車場に車を止めます。ここから電車に乗り換え新大工電停で降ります。
玉屋につながる歩道橋を渡り蛍茶屋方面へ10〜20m程行き左へ曲がります。さらに10〜20m程行ったところに「長崎街道ここに始まる」の石標があり、ここが長崎街道の出発点となり、シーボルト通りを進むことになります。
シーボルト通りはタイルでキレイに舗装された道で、すぐに左手に春徳寺へ行く道(春徳寺通り)が現れます。この道を通って、かつての長崎氏の居城、更には烽火山へと行けるようです。
シーボルト通りを更に進むと左手に桜馬場中学校が見えます。ここは南北朝以来長崎氏の居城で桜馬場城(鶴城)と呼ばれていたようです。
古橋を渡りトロトロ坂を通り蛍茶屋を過ぎ、本河内水源地の手前の松島神社辺りで国道に出ます。この後は国道を通って日見トンネルを目指します。
長崎街道起点 | 春徳寺への道 |
![]() |
![]() |
古橋 |
トロトロ坂から彦山を眺める |
![]() |
![]() |
一瀬橋(一瀬口) 後ろは蛍茶屋電車車庫 |
松島神社(ここから国道に出る) |
![]() |
![]() |
日見トンネル手前で、旧道に入り日見峠を目指します。まずは少し不安もあったので近所の人にルートの確認をし、問題なく通れることを確認して登り始めました。
日見峠には江戸時代関所が置かれていました。常設ではなかったようで長崎奉行が必要と思った時に設置したそうです。当時はこの峠は西の箱根と言われるほど険しかったようですが明治に峠の山をV字に切り開いて日見新道を造り、馬車が通れるようにしたそうです。通行料を取ったらしく日本初の有料道路と言われているようです。
日見トンネル左脇の小道を登り歩道橋を渡ります。5分程で新茶屋を過ぎ更に10分で日見新道にぶつかります。日見新道を行けば難無く峠は越えられますが今回は旧道を行きます。新道脇に旧長崎街道の標識がありますのでこれに従い山道を登っていきます。数分で地震神社の鳥居へ続く石段が見えると峠はすぐそこです。峠を過ぎて約数十m下ると日見峠関所跡があります。関所を過ぎてしばらく下ると日見新道に戻ります。新道に出ても直ぐにまた旧道に戻ることができ、途中有名(らしい)な芒塚を通ります。官により整備された休憩所のようになっており小休止をとります。
この芒塚は俳人向井去来の句碑で、天明4年(1784)に長崎の俳人たちが建立しました。去来は中島聖堂を創建した儒医向井元升の次男で慶安4年(1651)に長崎市で生れ、京都に出て松尾芭蕉の弟子(蕉門十哲)となり名をなした人ですが、この句は彼が元禄2年(1689)帰郷して京都に帰る時、卯七との別れを日見峠で詠んだものと言われています。
君が手も まじるなるべし 花薄(すすき)
小休止を終え、トンネル出口へ着きます。ここには梨子の木茶屋跡があります。このあとで道が分らなくなり、地元の人に道を教えてもらってルートに戻ることができ、日見公園に着いて昼食をとりました。この辺りには日見宿跡がある筈ですが見つけることができませんでした。
日見峠への標識 | 日見峠新茶屋の跡 |
![]() |
![]() |
地震神社の鳥居 |
日見峠から彦山を望む |
![]() |
![]() |
日見峠関所跡 |
日見峠から芒塚へ向かう旧道 |
![]() |
![]() |
芒塚の句碑(休憩所になっている) |
梨子の木茶屋の跡 |
![]() |
![]() |